砂漠の陰から

砂漠の陰から

広大な砂漠のような社会の陰でちまちまと生きていくブログ

雑記:思い出の宿り木

 

実家がなくなった。

 

正確に言えば、取り壊され、バラバラの破片となって、崩れていった。何十年と過ごした場所が、なくなっていくのは、あっという間だった。皮肉なものだなと思う。

 

親の経営する会社は破たんし、親も自己破産。資産はすべて差し押さえ。競売。ちまたに聞くような流れである。しかし、ありふれた話なのだろう。敗者側に回ってしまった人には、何も残らない。

 

空き家問題でクローズアップされるのは、「モノ」への執着である。親から実家を相続したものの、すでに自分は住処を持っている。住む人がいない。住人がいない住居など、負債に他ならない。それなのに、処分できないのだ。思い出が邪魔をする。思い出を壊したくないという感情から、客観的には非合理な選択をする。人間らしいね、ある意味。「予想通りに不合理」な行動だ。

 

ぼくはモノへ執着はないつもりだった。思い出はモノに残るワケではない。頭の中、記憶だろう。自分の記憶の中にあれば、モノはいらないのではないか。そんなことを考えていた。いま思えば、そんなに心が強くないのに。

実際にはどうだろう?昔撮ったプリクラは捨てられないし、写真もすべてデータにして保存したのに、処分はできない。同じように、ただの空き地となった実家を見て、心にポッカリと穴が空いている。家を出て家庭を作り、自分の住処を持っているぼくは、もう住むことはないハズなのに。今さら実家がなくなったところで、困ることなどこれっぽっちもないはずなのに。

 

記憶というものは、心の中に引き出しが無数にあって、その中にひとつひとつジャンル分けして、収納されていると思う。全ての記憶を、瞬時に引き出しから取り出せる人はいるのだろうか。ごく一部の天才だろうか。ぼくのような一般人は、何らかのキッカケを基に、きちんと整理整頓された引き出しを丁寧に探す。例えば、壁に空いた穴を見て「そう言えば、ひどい兄弟げんかをしたなあ」と思い出すように。柱に刻まれた身長の落書きを見て、比べっこした出来事を思い出すように。

思い出を辿るキッカケが、「モノ」なのだろう。まさしく、「モノ」には思い出が宿っている。思い出の宿り木のようだ。

 

引き出すキッカケがない記憶は、思い出は、存在していると言えるのか?押入れの奥底にしまい込まれた写真のように、日の目を浴びることのない思い出は存在していると言えるのか?ぼくにはわからない。

わからないけれど、実家がなくなって、思い出の宿り木がなくなって、ぼくは子供時代の思い出をどれほど思い返すことができるだろう?新しい記憶や思い出がどんどんと流し込まれ、蓄積されていくなかで、キッカケすら消えてしまった記憶を再び取り出すことができるだろうか?

 

終わりがないモノなど存在しない。形あるものはいつか崩れ、綻んで、やがて腐っていく。当たり前の話だ。ぼく自身の身体もいつかは灰となって、地球に還っていく。

実家が、思い出の宿り木が、こんなにも早く、あっさりと消えてしまうとは思っていなかった。覚悟していなかった。実感していなかった。考えることなどなかった。

 

いつかある終わりを知りながらも、その終わりはぼやけている。一寸先は闇というが、まさしく未来は不透明だ。将来の不安や、終末も、ぼやけているからこそ、人間は生きていける。余命宣告された人は何を思うのか?終わりがより鮮明となって視線の先に現れたとき、ぼくは今と同じように生きていけるのか?

 

ぼくにとっての帰る実家はなくなった。年始には、実家に「行く」ことになる。思い出のなかに「帰る」場所はもうないのだから。

 

とりあえず、いまこの瞬間を精いっぱい楽しみたい。心に空いた穴は、いつふさがってくれるのか。答えはわからないけれど。今は、結末のことを考えたくないんだ。

税務:学問的観点から「租税法」を解説させてほしい

すしすきー Advent Calendar 2023 Vol.1 Vol.2 Vol.3 R-18版
前の記事→12月18日:A5ランクの日さん「偉そうな読書感想文のすすめ
後の記事→12月20日:ポテトタイム君さん「数学の話」


こんにちは。こんばんは。おはようございます。
ぺすです。この度はいつもお世話になっております。
この記事は、Misskey すしすきーサーバー Advent Calendar 2023 向けの記事です。

今回この企画に応募させていただいてから、テーマについて悩みました。もっと無難なテーマで書こうかな、とも思いましたが、ある人の「普段読まないような、その人ならではのニッチな内容が面白いと思う」というノートを見まして、思いきってぼくの本業でもある「税務」をテーマにしようと思いました。

税金というと、堅苦しい。難しい。おじさんくさい。そんなイメージなのでしょう。ぼくもそう思ってる

眠くなるし、つまらんテーマだとは思いますが、なじみのない方でもわかりやすいように、難しい言葉はできるだけ使わずに記事を書いたつもりです。せっかくの機会なので是非とも最後まで読んでいってください!


※箸休めのため、ところどころにぼくが撮った無意味な写真を挿入しています。癒されてね!


法律をもとに課税する「租税法律主義」

税金というと、みなさんは何が思い浮かびますか?
身近なところでいえば、所得税や消費税がなじみ深いでしょう。税目にはいろんな種類がありまして、日本においてはおよそ50種類の税金が存在すると言われています。泣きたくなるぜ。

それぞれの税目について、法律が整備されています。法人税だったら、法人税法。消費税だったら、消費税法といった具合ですね。住民税や固定資産税など、地方自治体が課している税金は地方税法に集められています。

このように、みなさんが負担している税金には根拠となる法律が存在します。地方税については、種々の議論がありますが…基本的に、この法則について例外はありません。

なぜなら、日本国における全ての税金は、法律で決めたうえで課税しなければイカンぞという絶対的なルールがあります。このルールを租税法律主義といいます。難しい言葉ですね。

租税法律主義は、みんな大好き日本国憲法によって規定されております。見てみましょう。

日本国憲法 第八十四条 
あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする。

日本国憲法は、全ての法律を超越する超絶究極最高権力を持った法律です。日本という国の在り方そのものを説いた法律です。すしすきーでいえばくちばしです。

憲法においてきちんと明文化されている以上、法律で定めがなければ課税することはできません。
仮にアンコリーノ別名詐称税が作りたければ、国会で議論し、法律として法案を通す必要があります。

法律をつくる国会議員は、国民一人一人が意思表明を行う選挙によって選出されます。いわば国民の代表。

つまり、課税の根拠となる法律は、ぼくたち自身が考えていくということです。自分たちのことは自分で決める。まさに民主主義を体現した考え方です。

民主主義国家である現代日本を生きるぼくたちにとっては、なじみのある考え方といえます。しかし、過去における租税の歴史は、そうではありませんでした。租税法律主義に至るまでの流れを見てみましょう。

「代表なくして課税なし」

人類の歴史の中で、租税はどのような変遷をたどってきたのでしょうか。

法律の下で課税する、という法律主義的な思想の源流は中世にさかのぼります。
1215年、当時のイングランド王国(現代のイギリス)のマグナ・カルタにおいて、「議会によらなければ課税はできない」と定められました。

それまでの課税権は、支配者たる者が独占していることが当たり前。支配者が明日から消費税1000000%にすると決めてしまえば、その通りになってしまう世の中です。

しかし、このマグナ・カルタによって、歴史上初めて、「国民」「国王」から課税の権利を奪いました。租税徴収は、個人が持つ財産を強制的に国家に移す機能を持っています。
王がこれを決めるのではなく、自分たちで決める。マグナ・カルタが課税における民主化の出発点です。


マグナ・カルタの時代から500年以上経ったあと「アメリカ独立戦争」が勃発します。当時イギリスの植民地とされていたアメリカが独立するために起こした戦争ですね。

アメリカ独立戦争のスローガンのひとつが「代表なくして課税なし」。当時のアメリカの人たちは、議会に代表を送る権利がありませんでした。統治者たるイギリスが一方的に税を課して、アメリカの民衆から徴収していたのです。

自分たちの代表がいないところで決められた税金は、納める必要はない。
自分たちの国を支えるためには、自分たちひとりひとりが自らルールを決めて、税金を納めなければいけない。

租税法律主義的な思想は、このような歴史の変遷を経て育まれていったのです。


国民のイメージ画像。かわいい

租税法律主義による効果

租税法律主義によれば、メリットが2つあるとされています。予見可能性法的安定性です。まーた難しい言葉が出てきましたね。一つずつ見ていきましょう

まず、予見可能性です。
これはザックリいうと、どれぐらいの税金が課されるのか、あらかじめわかるという効果です。

説明は省いたのですが、税金を課す法律には「何に対して、いつ、どれぐらいの税率か」という要件を規定することが求められています。
つまり、法律をひも解くことで、国民からすればどれぐらいの税負担が求められるのか?を前もって理解することができます。


続いて、「法的安定性」を見てみましょう。これは、法律を根拠にすることで、課税庁の暴走を防ぐ効果です。

さきほどの例のように「明日から消費税1000000%になる」と、その時々のノリや勢いで決められたら、たまったモノじゃありません。というか、そんなバカげた税金を国民が自分に課すことは考えられません。「自分たちの払う税金は、自分たちが決める」からですね。
法律を根拠とした課税を強制することによって、行政による課税権の濫用を防ぐことができます。場当たり的な課税を防ぐ効果があるのですね。

みんなを公平に取り扱う「租税公平主義」

租税の原則として、もう一つの決まりがあります。みんなで平等に税金を負担しようというルールです。これを租税公平主義といいます。

これは分かりやすいですね。まったく同じ条件のAさんとBさんがいたら、2人とも同じ税額にならないといけない。どちらかを優遇してはいけないという考え方です。
租税公平主義には、憲法において直接の明文規定はありませんが、第14条が根拠になると言われています。

日本国憲法第十四条
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

租税においては、「担税力」というモノサシで能力を測定します。担税力とは読んで字のごとく、税金を納める力を指しています。

租税公平主義は、担税力に応じた課税を求めます。

仮に同じ10万円の収入があったとしても、その収入に継続性が見込める(例:給料)場合は担税力が高いと言えますし、一時的な収入(例:保険金)であれば担税力が低いと言えるでしょう。
実際、現行の所得税法においては、同額の給料収入と保険金収入があった場合、(基本的には)保険金の税額が少なくなるように設計されています。

同じ担税力には同額の負担を課すことを「水平的公平」、担税力に差があるのであれば、担税力に応じた負担を課すことを「垂直的公平」と呼びます。


余談ですが、皆さんはよく5000兆円欲しいとおっしゃっていますね。
5000兆円(5,000,000,000,000,000円)を一時所得と仮定した場合、合計所得金額は2,499,999,999,750,000円となり、この所得金額では基礎控除も適用不可となりますので、復興特別所得税も込みで1,148,624,994,988,400円の所得税が発生します。
2023年度における国家予算のおよそ10倍の金額です。でかい!

租税法律主義と租税公平主義は両立できない?

ところで、租税法律主義と租税公平主義は相反したものという議論があります。法律に基づいた課税を徹底すれば公平性が失われ、公平に基づいた課税を徹底すれば法律主義により担保されていた安定性が失われてしまうということです。これはどういうことでしょうか。


例をあげてみましょう。

本屋さんがあったとします。この本屋さんでは、購入前の立ち読みが横行していました。
そこで店主は、以下のようなルール(=法律)を決めました。


購入前の書籍の立ち読みをしてはいけません。


このルールを設定することで、立ち読みをする人がいなくなりました。これで話が終われば良いのですが、考えてみましょう。今度は、立ち読みではなく座って読んでしまう人が現れた場合はどうでしょうか。

彼らはあくまで「立ち読み」はしていませんよ、と主張します。屁理屈も屁理屈ですが、なかにはそんなことを言いだすヤバい輩もいるかもしれません。座り読みをする人は上記のルールのなかで罰せられるべきでしょうか?

飲酒で正常に判断しよう(この写真はお酒ではありません)


この問題を考えるとき、まずは「立ち読み」という行動がなにを指しているのか、を検討しなければいけません。これを法律用語では「解釈」と言います。

租税法律主義の観点から考えてみましょう。
租税法律主義は、「文理解釈」が大前提です。文理解釈とは、条文をそのまま素直に理解するイメージです。
すなわち、立ち読みはそのまま「立って読む行為」と理解して、座って読む行為は立ち読みに当たらないと考えるワケです。ルールでは、あくまで「立ち読み」しか禁止されていませんね。「座り読みをしてはいけない」とはどこにも書いてありません。

租税公平主義の観点からみましょう。
立ち読み禁止ルールが設定された目的を思い出せば、このルールは購入せずに本を読んでしまうことを防止するために設けられたハズです。
その趣旨目的から、立っていようが座っていようが、購入前の本を読んでしまうこと行為そのものが「立ち読み」と捉えることができます。したがって、立たずに座って読むことも当然のように罰するべきといえるでしょう。このような解釈の方法を「目的論的解釈」と呼びます。条文の創設された背景・趣旨を考慮して検討するイメージです。


これが法律主義、公平主義の視点の違いです。視点を変えただけで、同じ行動に対して、同じルールを適用しているのに結論が全く変わってしまいますね。
ルールを拡張的に解釈しすぎると、先ほど紹介した「予見可能性」「法的安定性」が崩れてしまいます。
かといって厳格に捉えすぎると、今度は法の抜け穴を突いてくるような人たちばかりが得をしてしまうことに繋がります。「法律にも穴はあるんだよな…」をガチのマジでやらかす人に対して、打つ手がなくなってしまいます。


今回は紹介しませんが、税務における訴訟事例(税務訴訟)のほとんどが法律主義と公平主義の考え方の争いといえます。
「条文には書いていない」と主張する納税者と、正直者がバカを見ないため、「公平性」を保つために課税すべきと主張する税務当局の争いなんですね。


みなさんはどちらの考え方を支持しますか。

さいごに

ぼくが個人的に崇拝している酒井克彦先生は、租税法律主義と租税公平主義の関係について、「対立関係にあるわけではない」と述べております。
曰く、立法段階で公平な課税ができるような法律ができていれば、あとはそれをキチンと運用することで公平かつ法律に基づいた課税ができるということです。この議論は、学者の中でも意見が割れているそうです。


当たり前ですが、完ぺきな法律などこの世に存在しません。日々改正が重ねられています。
令和6年度の税制改正案をまとめた「税制改正大綱」は、例年通りだと12月の中旬に発表されますので、この記事がみなさんの目に触れているときにはもう発表されているかもしれません。


この記事をキッカケとして、みなさんの中で少しでも「税金」が身近になっていただければ幸いでございます。




最後までお付き合いいただきありがとうございました。良い夢みろよ




※当記事は、令和5年12月18日現在における法律・法令を基に掲載しております。

雑記:愛犬が教えてくれたこと

母から、愛犬が死んだという報告を聞いたとき、本当に胸が苦しくなりました。
忘れもしません。2年前の夏、愛犬が亡くなりました。17歳でした。人間に換算すると、84歳くらいとのことで、大往生と言ってもよいのではないでしょうか。

我が家は6人兄弟です。騒がしい実家でした。でも、愛犬にとっては、きっと楽しく過ごせる家であったと思っています。常に誰かいるからね。

兄弟が一人、また一人と家を出て自立していって、とうとう最後の末っ子も家を出て、寮暮らしになった年のことでした。家族がだんだんと家を離れていくことは、愛犬にとっては寂しいことだったのでしょう。たまに帰省したときは、玄関でシッポを振ってお出迎えしてくれたものです。


兄弟喧嘩によく巻き込んでしまいました。ケンカで投げたものが愛犬に当たってしまって、痛い思いをさせてしまったこともありました。兄が愛犬に八つ当たりすることがありました。でも、最期を看取りに来れたのは、その兄だけでした。

10歳になっても全く老ける様子を見せず、元気に走り回っていた愛犬。亡くなる数年前にてんかんを発症し、そこから急速に老けてしまいました。

トイレもうまくできずに、オムツを着けた姿を見るのは、正直心苦しかった。老化で内股になった姿を見るのがつらかった。昔は軽々と飛び越えていた段差を、越えられずに右往左往する様子を見るのが目に堪えなかった。
亡くなる数日前に、父が抱っこして撮った写真が、とても弱々しくて、目を背けたくなった。


末っ子の弟にとっては、産まれた時から家にいる人生の先輩だったでしょう。死の知らせを聞いたとき、弟は号泣していたそうです。


「子どもが生まれたら犬を飼いなさい」という、有名なことわざがありますよね。

子どもが生まれたら犬を飼いなさい


子どもが赤ん坊のとき、子どものよき守り手となるでしょう


子どもが幼少期のとき、子どものよき遊び相手となるでしょう


子どもが少年期のとき、子どものよき理解者となるでしょう


そして子どもが青年になったとき、自らの死をもって子どもに命の尊さを教えるでしょう


まさしく、このことわざを体現していたと思います。愛犬は死をもってして、命の大切さを教えてくれました。


「死ね」という言葉を軽々しく使えるのはなぜでしょうか。それは、生命の重さを知らないからでしょう。命の尊さを痛感した経験がないから、わからないのでしょう。

命の重さを感じることができる機会は、非常に限られています。誰かの「死」を通してしか、実感することができません。


愛犬はその機会をぼくたちにくれました。ぼくたちへの、最後のプレゼントだと思っています。

ほんとうにありがとう。



2年経って、ようやく気持ちが落ち着いたよ。

たくさん迷惑をかけてごめんね。安らかに眠ってください。
天国でいっぱい走り回って、大好きなお菓子をたくさん食べてね。
ぼくもそっちへ行ったときは、昔みたいに頭をたくさん撫でさせてね。


大切な家族 モモ へ

雑記:本当にやりたかったこと

ぼくが本当にやりたかったことってなんだろう、と考えることがあります。最近は特に多いです。
幸運にも、学生の頃に志した職業に就くことができましたので、そこは幸せと思っています。
でもまあ、考えてみれば当たり前なんですが、いざ社会に出てみるとこの世界は広い。色んな職業がある。仕事柄たくさんの職種の方とお話しする機会があって、より強く痛感しています。

こんなに世界は広がっているのに、学生の時分に狭い視野で決めた職業にしがみついているのは正しいことなのか?ぼくにもっと合う職業があるんじゃないか?
そんな気持ちがないとは言えません。

結局のところ、税理士という職がぼくに合っていないのでは?と悩むことがあります。
士業に求められる能力に、コミュニケーション能力があります。仕事を自分で取ってくること、人脈を作っていくことが非常に重要です。そんな超絶最重要スキルを、自分が持っているとは思えない。

しかし、仕事上は求められるワケです。社長にとってみれば、会社の血液とも言えるオカネを預ける相手です。信頼関係が大事です。
コミュニケーション能力とは、単に雑談力だけではなく、真摯に相手と向き合う能力と思っています。できてるんでしょうかね。わからない。

仕事上で扱う金額も大きいです。数千万、場合によっては億を超える投資や取引について、アドバイスを求められることもあります。
最終的に判断するのは、あくまで社長自身です。しかし、自分の言葉一つで、お客様の会社が傾くことがあればどれだけの人が露頭に迷うことになるのでしょうか?それを受け止める責任感はあるのか?
胸を張って「イエス」と言えない自分がいます。


最近、こんな本を読みました。
お金と仕事の原理原則を改めて教えてくれる良書でした。「仕事の価値」を考えさせてくれる本なんですね。

内容がよくわからんけど稼げる投資先にオカネを預けてくれれば、働かなくても暮らしていけるようになる!という、胡散臭さがマックスな儲け話を真に受けて、そして失敗をして、その出来事を通して仕事をする幸福感と達成感を学ぶという流れが大まかなあらすじです。
主人公のゾウ(この本は登場人物が全員ゾウです)はパン屋を営んでいます。失敗を経てどん底を経験したとき、改めてお客様の笑顔や喜びを思い出してやりがいを見つけ出します。


ぼくの今の仕事のやりがいってなんなんだろう。
顧問契約を結んで、定期的に監査やお話をさせていただくことが主な業務ですが、その中でやりがいを感じることはなんだろう。

今の業務内容は、上司と一緒に監査をすることが多いです。単純にお客様の規模が大きいから一人では監査しきれないというのもありますが、引継ぎの意味も兼ねています。
今の上司は、いろんなお客様ともう20年くらい一緒に仕事をしています。お客様のほうで何か悩みがあれば、当然ですがまず上司にお話を聞きにいきます。
今後、引継ぎをする上では20年かけて築かれた蜜月の関係の中に割って入っていく必要があるワケです。


自信がない。
法人税の申告書は書けますが、税務調査の経験が少ない。
相続人の方とコミュニケーションを取りつつ、相続をまとめた経験も少ない。トラブルが起きた、ヒリヒリするような案件も少ない。


もっと言えば、お客様から「頼られた」経験が少ない。
いまは下積みとも言えるような状態かもしれません。

パン屋さんがお客様の笑顔を見てやりがいを感じるように、ぼくが仕事を通して達成感を得たことが少なくて
それを欲しているんだなと自己分析しています。

ぼくもパン屋さんになっていたら、仕事は大変に決まっているけども、それでも「お客様からの笑顔や感謝」を感じることができたのかな。



なんだろう。
もっと社会の役に立っているような実感が欲しい。

今はただ、頑張るしかないんでしょうね。

キャンプ:いなかの風を感じる

いやー、来ましたね。
2年ぶりにキャンプに行きました。ゆるキャンを見てニチャついたぼくは、2年前の4月に初めてキャンプデビューしまして。そのときは眠れない、早朝雨に降られると洗礼を受けたワケなんですが、ようやくリベンジすることができました(ソロではない)
妻の妊娠があったので去年は行けませんでしたが、今年は許可を取って行けましたよ。ハラワタ煮えくり返ってるって帰ったあとに言われたけど


今回赴いたのはいなかの風キャンプ場です。

長野県の駒ヶ根にあるキャンプ場ですね。名古屋から車で3時間半くらい。
中央アルプスを望める眺めがよいキャンプ場です。むかし棚田として使われていた土地をキャンプサイトに転用しているところから、段々状のサイトが特徴です。サイト同士の距離は意外と近い…んですが、上下の空間もあり、お隣さんは意外と気になりませんでした。

レンタルしたのはAサイトの45番。公式ホームページによると人気ナンバー3だそうで、特に眺望がいいサイトのようです。

お隣さんと友人も映ってしまっていますが、サイトからの眺め。ぼくは雨男と悪名高いのですが、今回は天気にも恵まれて開放感を感じることができました。

一緒にいった友人のうち、1人はなんにも道具を持っていないので、今回はテントと宿泊セットをレンタル。テント用品高すぎて鼻血出る。しかし、いなかの風キャンプ場はレンタル道具も充実しています。キャンプが初めての人でも気軽に楽しむことができそうです。
レンタルテントはスノーピークのアメニティドーム。やはりスノーピークは快適。ぼくのバンドックのテントとは一味も二味も違う。いやまあ、バンドックも十分気に入ってるんですけどね。いつかは買いたいですね。そんなときが来るかは知らんが。
ちなみに、前回眠れなかった教訓を生かして、今回は普段自宅で使っている枕を持ち込みました。空気で膨らむアウトドア用の枕も買ったんですけど、やっぱり”ホンモノ”にはかなわない。わりと眠ることができました。今後も、枕持ち込みでいこうと思います。テントと一緒に枕を積み込むのは少しシュールですが。


夕食はバーベキューとハヤシライス。キャンプ初心者は肉を焼くしかレパートリーがありません。でも肉焼いとけばとりあえず満足感高いからしょうがない。
ハンゴウ炊爨が好きなので、ご飯はハンゴウで炊きました。写真は撮り忘れた模様。アヒージョとか作れたらすげえオシャレなんだろうけど、脳筋のぼくたちは肉を焼き、飯を炊くことしかできませんでした。慣れたら色々作っていきたいけどね。

次は焼き鳥を自作して持っていきたいなあと個人的に思っています。焼き鳥を死ぬほど食いたい。お酒は飲めないけど。


キャンプの醍醐味といっても過言ではない焚火も楽しんできました。火はいいですね。薪の爆ぜる音とゆらめく火を眺めているだけで心が洗われる気がします。
設営して、ご飯作って食べて、風呂入って、焚火してたらなんだかんだでもう寝る時間になってしまいます。次はもっとのんびりしたキャンプをしてみたいですね。
暑い時期は避暑のため標高の高いキャンプ場に行きたいんですが、標高が高い=交通の便が悪いというジレンマ。2時間以上車で走りたくないんですが、何とかならんでしょうか。自動運転を早く広めてくれ。



そんなワケで、いろいろと課題は見つかりましたが、2年ぶりのキャンプを楽しむことができました。
キャンプブームってもう下火なんでしょうかね?落ち着いてきてくれたらもっと行きやすくなるんですが、果たしてどうか。