砂漠の陰から

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広大な砂漠のような社会の陰でちまちまと生きていくブログ

税務:学問的観点から「租税法」を解説させてほしい

すしすきー Advent Calendar 2023 Vol.1 Vol.2 Vol.3 R-18版
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こんにちは。こんばんは。おはようございます。
ぺすです。この度はいつもお世話になっております。
この記事は、Misskey すしすきーサーバー Advent Calendar 2023 向けの記事です。

今回この企画に応募させていただいてから、テーマについて悩みました。もっと無難なテーマで書こうかな、とも思いましたが、ある人の「普段読まないような、その人ならではのニッチな内容が面白いと思う」というノートを見まして、思いきってぼくの本業でもある「税務」をテーマにしようと思いました。

税金というと、堅苦しい。難しい。おじさんくさい。そんなイメージなのでしょう。ぼくもそう思ってる

眠くなるし、つまらんテーマだとは思いますが、なじみのない方でもわかりやすいように、難しい言葉はできるだけ使わずに記事を書いたつもりです。せっかくの機会なので是非とも最後まで読んでいってください!


※箸休めのため、ところどころにぼくが撮った無意味な写真を挿入しています。癒されてね!


法律をもとに課税する「租税法律主義」

税金というと、みなさんは何が思い浮かびますか?
身近なところでいえば、所得税や消費税がなじみ深いでしょう。税目にはいろんな種類がありまして、日本においてはおよそ50種類の税金が存在すると言われています。泣きたくなるぜ。

それぞれの税目について、法律が整備されています。法人税だったら、法人税法。消費税だったら、消費税法といった具合ですね。住民税や固定資産税など、地方自治体が課している税金は地方税法に集められています。

このように、みなさんが負担している税金には根拠となる法律が存在します。地方税については、種々の議論がありますが…基本的に、この法則について例外はありません。

なぜなら、日本国における全ての税金は、法律で決めたうえで課税しなければイカンぞという絶対的なルールがあります。このルールを租税法律主義といいます。難しい言葉ですね。

租税法律主義は、みんな大好き日本国憲法によって規定されております。見てみましょう。

日本国憲法 第八十四条 
あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする。

日本国憲法は、全ての法律を超越する超絶究極最高権力を持った法律です。日本という国の在り方そのものを説いた法律です。すしすきーでいえばくちばしです。

憲法においてきちんと明文化されている以上、法律で定めがなければ課税することはできません。
仮にアンコリーノ別名詐称税が作りたければ、国会で議論し、法律として法案を通す必要があります。

法律をつくる国会議員は、国民一人一人が意思表明を行う選挙によって選出されます。いわば国民の代表。

つまり、課税の根拠となる法律は、ぼくたち自身が考えていくということです。自分たちのことは自分で決める。まさに民主主義を体現した考え方です。

民主主義国家である現代日本を生きるぼくたちにとっては、なじみのある考え方といえます。しかし、過去における租税の歴史は、そうではありませんでした。租税法律主義に至るまでの流れを見てみましょう。

「代表なくして課税なし」

人類の歴史の中で、租税はどのような変遷をたどってきたのでしょうか。

法律の下で課税する、という法律主義的な思想の源流は中世にさかのぼります。
1215年、当時のイングランド王国(現代のイギリス)のマグナ・カルタにおいて、「議会によらなければ課税はできない」と定められました。

それまでの課税権は、支配者たる者が独占していることが当たり前。支配者が明日から消費税1000000%にすると決めてしまえば、その通りになってしまう世の中です。

しかし、このマグナ・カルタによって、歴史上初めて、「国民」「国王」から課税の権利を奪いました。租税徴収は、個人が持つ財産を強制的に国家に移す機能を持っています。
王がこれを決めるのではなく、自分たちで決める。マグナ・カルタが課税における民主化の出発点です。


マグナ・カルタの時代から500年以上経ったあと「アメリカ独立戦争」が勃発します。当時イギリスの植民地とされていたアメリカが独立するために起こした戦争ですね。

アメリカ独立戦争のスローガンのひとつが「代表なくして課税なし」。当時のアメリカの人たちは、議会に代表を送る権利がありませんでした。統治者たるイギリスが一方的に税を課して、アメリカの民衆から徴収していたのです。

自分たちの代表がいないところで決められた税金は、納める必要はない。
自分たちの国を支えるためには、自分たちひとりひとりが自らルールを決めて、税金を納めなければいけない。

租税法律主義的な思想は、このような歴史の変遷を経て育まれていったのです。


国民のイメージ画像。かわいい

租税法律主義による効果

租税法律主義によれば、メリットが2つあるとされています。予見可能性法的安定性です。まーた難しい言葉が出てきましたね。一つずつ見ていきましょう

まず、予見可能性です。
これはザックリいうと、どれぐらいの税金が課されるのか、あらかじめわかるという効果です。

説明は省いたのですが、税金を課す法律には「何に対して、いつ、どれぐらいの税率か」という要件を規定することが求められています。
つまり、法律をひも解くことで、国民からすればどれぐらいの税負担が求められるのか?を前もって理解することができます。


続いて、「法的安定性」を見てみましょう。これは、法律を根拠にすることで、課税庁の暴走を防ぐ効果です。

さきほどの例のように「明日から消費税1000000%になる」と、その時々のノリや勢いで決められたら、たまったモノじゃありません。というか、そんなバカげた税金を国民が自分に課すことは考えられません。「自分たちの払う税金は、自分たちが決める」からですね。
法律を根拠とした課税を強制することによって、行政による課税権の濫用を防ぐことができます。場当たり的な課税を防ぐ効果があるのですね。

みんなを公平に取り扱う「租税公平主義」

租税の原則として、もう一つの決まりがあります。みんなで平等に税金を負担しようというルールです。これを租税公平主義といいます。

これは分かりやすいですね。まったく同じ条件のAさんとBさんがいたら、2人とも同じ税額にならないといけない。どちらかを優遇してはいけないという考え方です。
租税公平主義には、憲法において直接の明文規定はありませんが、第14条が根拠になると言われています。

日本国憲法第十四条
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

租税においては、「担税力」というモノサシで能力を測定します。担税力とは読んで字のごとく、税金を納める力を指しています。

租税公平主義は、担税力に応じた課税を求めます。

仮に同じ10万円の収入があったとしても、その収入に継続性が見込める(例:給料)場合は担税力が高いと言えますし、一時的な収入(例:保険金)であれば担税力が低いと言えるでしょう。
実際、現行の所得税法においては、同額の給料収入と保険金収入があった場合、(基本的には)保険金の税額が少なくなるように設計されています。

同じ担税力には同額の負担を課すことを「水平的公平」、担税力に差があるのであれば、担税力に応じた負担を課すことを「垂直的公平」と呼びます。


余談ですが、皆さんはよく5000兆円欲しいとおっしゃっていますね。
5000兆円(5,000,000,000,000,000円)を一時所得と仮定した場合、合計所得金額は2,499,999,999,750,000円となり、この所得金額では基礎控除も適用不可となりますので、復興特別所得税も込みで1,148,624,994,988,400円の所得税が発生します。
2023年度における国家予算のおよそ10倍の金額です。でかい!

租税法律主義と租税公平主義は両立できない?

ところで、租税法律主義と租税公平主義は相反したものという議論があります。法律に基づいた課税を徹底すれば公平性が失われ、公平に基づいた課税を徹底すれば法律主義により担保されていた安定性が失われてしまうということです。これはどういうことでしょうか。


例をあげてみましょう。

本屋さんがあったとします。この本屋さんでは、購入前の立ち読みが横行していました。
そこで店主は、以下のようなルール(=法律)を決めました。


購入前の書籍の立ち読みをしてはいけません。


このルールを設定することで、立ち読みをする人がいなくなりました。これで話が終われば良いのですが、考えてみましょう。今度は、立ち読みではなく座って読んでしまう人が現れた場合はどうでしょうか。

彼らはあくまで「立ち読み」はしていませんよ、と主張します。屁理屈も屁理屈ですが、なかにはそんなことを言いだすヤバい輩もいるかもしれません。座り読みをする人は上記のルールのなかで罰せられるべきでしょうか?

飲酒で正常に判断しよう(この写真はお酒ではありません)


この問題を考えるとき、まずは「立ち読み」という行動がなにを指しているのか、を検討しなければいけません。これを法律用語では「解釈」と言います。

租税法律主義の観点から考えてみましょう。
租税法律主義は、「文理解釈」が大前提です。文理解釈とは、条文をそのまま素直に理解するイメージです。
すなわち、立ち読みはそのまま「立って読む行為」と理解して、座って読む行為は立ち読みに当たらないと考えるワケです。ルールでは、あくまで「立ち読み」しか禁止されていませんね。「座り読みをしてはいけない」とはどこにも書いてありません。

租税公平主義の観点からみましょう。
立ち読み禁止ルールが設定された目的を思い出せば、このルールは購入せずに本を読んでしまうことを防止するために設けられたハズです。
その趣旨目的から、立っていようが座っていようが、購入前の本を読んでしまうこと行為そのものが「立ち読み」と捉えることができます。したがって、立たずに座って読むことも当然のように罰するべきといえるでしょう。このような解釈の方法を「目的論的解釈」と呼びます。条文の創設された背景・趣旨を考慮して検討するイメージです。


これが法律主義、公平主義の視点の違いです。視点を変えただけで、同じ行動に対して、同じルールを適用しているのに結論が全く変わってしまいますね。
ルールを拡張的に解釈しすぎると、先ほど紹介した「予見可能性」「法的安定性」が崩れてしまいます。
かといって厳格に捉えすぎると、今度は法の抜け穴を突いてくるような人たちばかりが得をしてしまうことに繋がります。「法律にも穴はあるんだよな…」をガチのマジでやらかす人に対して、打つ手がなくなってしまいます。


今回は紹介しませんが、税務における訴訟事例(税務訴訟)のほとんどが法律主義と公平主義の考え方の争いといえます。
「条文には書いていない」と主張する納税者と、正直者がバカを見ないため、「公平性」を保つために課税すべきと主張する税務当局の争いなんですね。


みなさんはどちらの考え方を支持しますか。

さいごに

ぼくが個人的に崇拝している酒井克彦先生は、租税法律主義と租税公平主義の関係について、「対立関係にあるわけではない」と述べております。
曰く、立法段階で公平な課税ができるような法律ができていれば、あとはそれをキチンと運用することで公平かつ法律に基づいた課税ができるということです。この議論は、学者の中でも意見が割れているそうです。


当たり前ですが、完ぺきな法律などこの世に存在しません。日々改正が重ねられています。
令和6年度の税制改正案をまとめた「税制改正大綱」は、例年通りだと12月の中旬に発表されますので、この記事がみなさんの目に触れているときにはもう発表されているかもしれません。


この記事をキッカケとして、みなさんの中で少しでも「税金」が身近になっていただければ幸いでございます。




最後までお付き合いいただきありがとうございました。良い夢みろよ




※当記事は、令和5年12月18日現在における法律・法令を基に掲載しております。