砂漠の陰から

砂漠の陰から

広大な砂漠のような社会の陰でちまちまと生きていくブログ

雑記:思い出の宿り木

 

実家がなくなった。

 

正確に言えば、取り壊され、バラバラの破片となって、崩れていった。何十年と過ごした場所が、なくなっていくのは、あっという間だった。皮肉なものだなと思う。

 

親の経営する会社は破たんし、親も自己破産。資産はすべて差し押さえ。競売。ちまたに聞くような流れである。しかし、ありふれた話なのだろう。敗者側に回ってしまった人には、何も残らない。

 

空き家問題でクローズアップされるのは、「モノ」への執着である。親から実家を相続したものの、すでに自分は住処を持っている。住む人がいない。住人がいない住居など、負債に他ならない。それなのに、処分できないのだ。思い出が邪魔をする。思い出を壊したくないという感情から、客観的には非合理な選択をする。人間らしいね、ある意味。「予想通りに不合理」な行動だ。

 

ぼくはモノへ執着はないつもりだった。思い出はモノに残るワケではない。頭の中、記憶だろう。自分の記憶の中にあれば、モノはいらないのではないか。そんなことを考えていた。いま思えば、そんなに心が強くないのに。

実際にはどうだろう?昔撮ったプリクラは捨てられないし、写真もすべてデータにして保存したのに、処分はできない。同じように、ただの空き地となった実家を見て、心にポッカリと穴が空いている。家を出て家庭を作り、自分の住処を持っているぼくは、もう住むことはないハズなのに。今さら実家がなくなったところで、困ることなどこれっぽっちもないはずなのに。

 

記憶というものは、心の中に引き出しが無数にあって、その中にひとつひとつジャンル分けして、収納されていると思う。全ての記憶を、瞬時に引き出しから取り出せる人はいるのだろうか。ごく一部の天才だろうか。ぼくのような一般人は、何らかのキッカケを基に、きちんと整理整頓された引き出しを丁寧に探す。例えば、壁に空いた穴を見て「そう言えば、ひどい兄弟げんかをしたなあ」と思い出すように。柱に刻まれた身長の落書きを見て、比べっこした出来事を思い出すように。

思い出を辿るキッカケが、「モノ」なのだろう。まさしく、「モノ」には思い出が宿っている。思い出の宿り木のようだ。

 

引き出すキッカケがない記憶は、思い出は、存在していると言えるのか?押入れの奥底にしまい込まれた写真のように、日の目を浴びることのない思い出は存在していると言えるのか?ぼくにはわからない。

わからないけれど、実家がなくなって、思い出の宿り木がなくなって、ぼくは子供時代の思い出をどれほど思い返すことができるだろう?新しい記憶や思い出がどんどんと流し込まれ、蓄積されていくなかで、キッカケすら消えてしまった記憶を再び取り出すことができるだろうか?

 

終わりがないモノなど存在しない。形あるものはいつか崩れ、綻んで、やがて腐っていく。当たり前の話だ。ぼく自身の身体もいつかは灰となって、地球に還っていく。

実家が、思い出の宿り木が、こんなにも早く、あっさりと消えてしまうとは思っていなかった。覚悟していなかった。実感していなかった。考えることなどなかった。

 

いつかある終わりを知りながらも、その終わりはぼやけている。一寸先は闇というが、まさしく未来は不透明だ。将来の不安や、終末も、ぼやけているからこそ、人間は生きていける。余命宣告された人は何を思うのか?終わりがより鮮明となって視線の先に現れたとき、ぼくは今と同じように生きていけるのか?

 

ぼくにとっての帰る実家はなくなった。年始には、実家に「行く」ことになる。思い出のなかに「帰る」場所はもうないのだから。

 

とりあえず、いまこの瞬間を精いっぱい楽しみたい。心に空いた穴は、いつふさがってくれるのか。答えはわからないけれど。今は、結末のことを考えたくないんだ。