砂漠の陰から

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広大な砂漠のような社会の陰でちまちまと生きていくブログ

雑記:亡くなったときに初めて気付く

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今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」


思いは言葉に。


はてなブログのキャッチコピーだ。
いいね。短く、端的だ。実にわかりやすくていい。


ぼくは、巷にあふれる情報収集しただけのアフィリエイトブログはあまり好きではない。
いや、好きではないといえば語弊があるか。ブログで稼ぐというのも、インターネット全盛期の昨今では一つのビジネスとしてあるべき姿である。


ただ、せっかく記事を書くなら、自分の考え方だったり体験談だったりも一緒に書きたいよね。そういうブログのほうが読んでいても楽しいと思う。
「好きではない」というより、「自分ではやろうと思わない」という表現のほうが正しいかな。
もちろん、いろんな情報を集約する作業は大変だと思うし(修士論文で体験した)、書きたいことしか書かないぼくのブログなんかよりアクセス数を稼げているだろう。毎日更新し続ける根気も必要だろうし、そこは尊敬すべきだ。



閑話休題



今日は、ぼくの祖父と祖母の話。

中学2年生のときに亡くなった祖母

ぼくが中学2年生に、母方の祖母が亡くなった。
詳しい死因は聞いていない。聞く気もなかった。お風呂で倒れているのを祖父が見つけたらしい。お風呂場というのは、急激な温度変化によって心臓発作が起きやすいという。とくに持病があると聞いたことはなかったから、きっとそれなのだろう。


祖母は、絵に描いたような優しいおばあちゃんだった。ぼくのことを「ちゃん」づけで呼ぶ声は今でも覚えている。
母方の祖父と祖母は名古屋の中心街に住んでいて、小学生のころは家族でよく遊びにいったものだ。鶴舞公園でベビーゴルフをして、帰りに鶴舞駅でアイスクリームを買ってもらっていた。
そのアイスクリーム店は今はもうない。店名も覚えていない。現在の鶴舞駅の構内にはドトールくらいしかない。
駅構内か、駅周辺かすらも覚えてないのだが、とにかく美味しかった。今思えばチープな味だったろうが、小学生のぼくには豪華すぎる食べ物だった。


祖母の死は、中学生のぼくにとっては衝撃だった。身近な人が初めて「死んだ」のだ。
制服を着て、初めてお葬式に出席した。棺の中の祖母は、キレイな顔をしていた。当たり前だが、触ってみても冷たいのだ。
当時、2・3歳だったぼくの弟が、意味もわからずに祖母の入った棺を叩いたりしていた光景を覚えている。
母がそんな弟を抱き上げながら、「おばあちゃんに挨拶しようね。もう会えなくなるから」と言っていた。「会えなくなるから」の部分は、声が震えていた。泣いていたのだ。ぼくは初めて母の泣いている姿を見た。


そんなお葬式の光景は、中学生で反抗期真っ盛りのぼくの、親への「反抗心」を奪っていった。
ぼくはまともに親へ反抗した覚えがない。言い合いをするくらいのことはあったが、ケンカなんてしたことがなかった。
もしかしたら、祖母が両親を大事にしろという教訓を残してくれたのかもしれない。

大学1年生のときに亡くなった祖父

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ぼくは小学校に入学する前、両親とともに父方の祖父祖母と暮らしていた。
そのころの記憶はおぼろげだが覚えている。家の中を走り回っていたり、飼っていた犬と遊んでいた記憶がある。
小学校に入る前に引越しをした。それでも車で10分程度の距離だったから、母方の祖父祖母と比べると身近な存在だった。


父方の祖父は、ぼくが大学1年生のクリスマスに亡くなった。ぼくは、大学の入学に合わせて実家を出て下宿していた。
12月に入ってから、祖父の体調が思わしくなく、秋頃から入院していることを母から聞かされていた。
当時はこれでも彼女がいて、もちろんクリスマスは一緒に過ごす予定があって、大晦日に実家に帰ろうと考えていた。
しかし、祖父の体調が一向に良くならず、もしかしてということもあるから一度帰ってきなさいと母から促され、予定を急遽変更してクリスマスイブに実家へ向かう電車に乗り込んだ。
駅まで迎えに来てくれた母とともに、祖父が入院しているという病院へ向かった。


病院には理学療法士の資格も持っている姉がすでに到着していて、看病していた。
ぼくがついたとき、祖父は呼吸器に繋がれ、苦しそうにもがいていた。祖父は病室に入ったぼくを見ていたが、言葉を発することはできなかった。
看護婦さんが「さっきまで(容体が)は安定していたんですが」と言う。先に到着した姉は祖父を言葉を交わすことができたらしい。
ぼくも祖父に声をかけたり、さすったりして自分なりに祖父を応援した。ぼくの知っている祖父はウマそうにビールを飲む陽気な祖父だったが、そのときは様子が違ったのだ。
1時間くらい滞在して、今日は発作が出ているからまた後日改めようということで病室を出た。


そして、その日の夜に祖父は亡くなった。
久しぶりに地元に帰ったということで、地元の友達と遊んでいたぼくのもとに母から電話で知らされた。
そこからは、とにもかくにも忙しい。
高校生までは制服があるからそれで喪服の代わりになったが、大学生のぼくにはそれがない。喪服を準備して、告別式の準備をしてとてんてこ舞いだ。
父も母も、あわただしく動いていた。悲しむ様子など見られなかった。
人が亡くなったとき、お葬式の準備などで悲しみを忘れさせるという話を聞いたことがある。なるほど、こういうことかと考えた覚えがある。


自宅で最後のお別れをするときだ。みんなは祖父のことを触ってあげたりするなかで、兄だけがそれに加わらず、目を真っ赤にして壁に寄りかかっていた。
祖父は会社を立ち上げていた。すでに社長は父に譲っていて、会長という立場だった。
兄は色々あって高校を中退し、父の会社に入社していた。きっと祖父にもしごかれていただろうから、思うことがあったのだろう。


結局ぼくは、祖父と最後に会話もすることができなかった。だけど、会うことはできた。
あのとき、母の言うことを素直に聞いて、実家に戻っていてよかったと思う。彼女には悪いことをしたけど。
「わざわざクリスマスに死ぬなんて親父らしい。誰も忘れねえよ」と父が笑っていたのを思い出す。

祖父と祖母が元気なうちに

母方の祖父と、父方の祖母はまだ元気だ。母方の祖父は足が悪く杖をついているのにクロスバイクを乗り回しているらしいし、父方の祖母は天然ボケの炸裂がすさまじいらしい。
ぼくは去年、結婚して挙式した。もちろん祖父と祖母も呼んだ。式場を選ぶときも、足が悪い祖父のことを考えてバリアフリーの式場を選んだ。
準備は大変だったが、晴れ姿をみせることができてよかったと思う。


亡くなったときに初めて、その存在の大きさに気付くものだ。
敬老の日。こういう機会に、改めておじいちゃんとおばあちゃんに感謝の気持ちを伝えたいものだね。




じいちゃん。自転車乗るときは気を付けてね。「コケたら最期だ」って笑いながら言うけど、笑えないからねマジで。
ばあちゃん。今年はコロナで帰れなかったけど、体調に注意してね。またいとこや兄弟を集めてバーベキューでもしよう。




ちなみに、読んでいて「兄弟、何人いるんだ?」と思われた方もいるでしょう。
「姉・兄・ぼく・妹・弟・弟」の6人兄弟です。